愛媛県議会議員 菊池伸英 Official Site

プロフィール

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菊池伸英プロフィール

昭和39年(1964年)10月13日生(53歳)
松山市立雄郡小学校・雄新中学校卒業
愛媛県立松山工業高等学校(定時制電気科)卒業
早稲田大学(人間科学部)卒業
所属政党 自民党(無会派)

  1. 平成06年
    松山市議会議員初当選(29歳)
    以来5期連続当選
  2. 平成17年
    全国若手市議会議員の会 会長就任
  3. 平成20年
    第92代松山市議会議長就任(43歳)
    愛媛県市議会議長会 会長就任
  4. 平成22年
    松山市長選にチャレンジし敗れる
  5. 平成23年
    愛媛県議会議員初当選(46歳)
  6. 平成27年
    愛媛県議会議員再選(50歳)

NPO法人日本ティーボール協会 愛媛県連盟 会長
NPO法人日本バトントワリング協会 理事
愛媛県アームレスリング連盟 会長
愛媛県立松山工業高等学校 同窓会(百錬会)会長
日本バーテンダー協会松山支部 名誉顧問
愛媛県視覚障害者マッサージ師会 顧問
愛媛県議会 農林水産委員
地方創生・産業基盤強化特別委員
自由民主党愛媛県環境保全支部 顧問
自由民主党愛媛県全管協ちんたい支部 顧問

菊池伸英ヒストリー

  • 0歳〜18歳、少年時代

    私は8人兄妹の長男として誕生しました。生家は決して裕福とは言えない状況でしたが、両親と子どもたちの声が響く、あたたかくも賑やかな家庭でした。勉強よりも運動が得意ないわゆるガキ大将で、友人たちを引き連れて、毎日泥んこになって遊んでいました。こうした経験や弟や妹の面倒をみることで、知らず知らずにリーダーシップが養われていたようにも思えます。実はこの頃から、秘かな目標として議員を志していました。父方の叔父が、朝倉村の村会議員をしていたことも影響していたのかもしれません。
    家庭の経済状況から長く新聞配達を続けていた私は、高校も定時制へと進学。昼間は電気工事の会社に勤めました。少年時代から働きながら学校に通う苦学をしたことも、良い経験となっています。

  • 19歳〜29歳、社会人時代

    19歳で社会に出た私は、機械のリース関係の仕事などに就いていましたが1年後に上京します。
    「もっといろんな経験をしたい」「広い世界を見てみたい」という想いを抱いて、自分が貯めていたわずかなお金と友人からのカンパを握りしめて、あてもなく故郷を後にしたのです。住み込みで働き、少しずつお金を貯めて、最終的には為替のディーラーなども経験しました。
    ところが27歳のとき、父親が交通事故に遭い、生死の境をさまようような怪我を負いました。幸いなことに命をとりとめたものの、身体に障がいをもってしまうのです。このとき、東京と愛媛を行き来しながら、父が良い環境で過ごせるように、福祉関連の役場との折衝を行いました。ところがその対応に疑問を感じ、障がいをもつ方に対する福祉について真剣に考えるようになりました。

  • 29歳〜44歳、松山市議会議員時代

    「障がいをもつ方に対する福祉のあり方を変えていきたい」。そう思った私は矢も盾もたまらず東京を引き上げて、4ヶ月後に迫った松山市議会議員選挙に挑戦します。古くからの仲間たちが応援してくれて、辛くも最下位での当選を果たします。
    まず取り組んだのは、スポーツで身体に障がいをもつ方が社会に参加できるようにしようということ。「体の不自由な方が健常者とともに楽しめるスポーツはないか」と考えて、アームレスリングに着目しました。スポーツを通じた健全な社会づくりは、私のライフワークの一つとなっています。
    初当選以降、5期に渡り市議会議員の職責を全ういたしました。また任期中には数々の要職を拝命していただき、政治家として、人間としての経験値を高めることができました。

  • 45歳、松山市長選への挑戦

    松山市議会議員として実績を重ねた私は、ここで大きな決断をしました。それは松山市長選への挑戦です。自分で政策を打ち出し、松山市政の舵取りをしたいというのが、最大の理由です。結果は健闘も虚しく落選という厳しいものでした。しかし、この挫折は私にとっては大きな転機となりました。今一度自分を見つめ直し、私に足りないものを身につけて行こうという前向きな気持ちが湧き上がってきたのです。またかけがえのない人々との出会いも、このときにありました。「疾風に勁草を知る」。逆風の時こそ、本当の強さが身につき、また見極められるのだと知りました。

  • 46歳、愛媛県議会議員当選

    平成23年、これまでの経験を生かしながら、さらに郷土の役に立ちたいと愛媛県議会議員選挙へと出馬しました。多くの皆様の支援を受けて、トップ当選を果たします。愛媛県のために力を尽くそうと気持ちを新たにしました。

  • 47歳、早稲田大学人間科学部
    (eスクール)入学

    実は、議員としての職を失った後、私は一つの決断をします。それは大学への進学です。理由は3つあります。
    第1に私自身、政治家としてもっと学びたいと思ったこと。そこで尊敬する大隈重信翁が創立した早稲田大学を選びました。
    第2に私を支援してくださる方たちに恩返しをしたいと思ったこと。これまで私の学歴に対して、厳しい意見が寄せられるなか、必死で守ってくださった方々に安心していただきたいと思ったのです。
    第3は家族のために。松山市長選に落選し、肩を落としていた私を、妻や子どもは随分心配してくれました。「元気で前向きな親父の姿を見せよう!」。そう考えたのです。
    議員として活動しながらeラーニングとスクーリングにより、大隈重信翁の精神を学び、あらためて自分が為すべきことを突き詰めることができ、無事に卒業を果たすことができました。

  • 現在は愛媛県議会議員二期目在任中です。
    こらからも「是々非々」の姿勢を貫きながら、真摯にこの道を歩んでいきます。

  • 早稲田大学での学びから得たこと

    大隈翁が描いていた治外法権の単位は、「日本国」にあるべきだと気づきました。地方分権はあくまでも、日本のための分権でなければなりません。世界から見たニッポンは、地方の集合体でもあるのです。そんな地方がどうあるべきかを考えました。国に対して、手のひらを上にして、「どうにかしてくれ!」と願うばかりではなく、建設的かつ国際的に、我々が望むことを実現出来るよう地方自治に訴え続けていくことが肝要なのです。
    松山市と同等人口の都市は、アメリカの首都ワシントン、スウェーデンの首都ストックホルム、デンマークのコペンハーゲン、フランスのトゥールーズ、ドイツのフランクフルトなどが挙げられます。私たちの住む愛媛(松山)は、このような欧米に列挙する都市より劣っているのでしょうか?そんなことはありません。私たちの住む愛媛(松山)にも、その価値が充分にあるのです。さらに言えば、愛媛と香川が合併していた1877年〜1887年の10年間、愛媛県は東京都(府)より人口の多い地域でした。ある意味、当時の東京府よりマンパワーがあったのです。

    私はそんな愛媛を再び取り戻したいと思いました。ふるさと愛媛を世界に打って出ることができる、名だたる地域にしたいと思っているのです。もちろん、それには多くの課題が山積されています。1,000兆円を超える政府の負債。赤字運営の続く自治体、高齢化や人口減少社会、膨大な社会保障費のやりくり、安全保障の在り方や隣国との接し方など。特に県内経済の活性化については、政策金利が低く抑えられたままでは、どんなに資本移動が繰り返されても、内需による経済成長によって日本国の債務を減らすことは難しい状況です。さらに少子高齢化、人口減少が危惧されているも大きな課題です。そんな状況下において内向きな地域間での内需競争を繰り返していると、ますます地方は疲弊してしまいます。適度なアライアンス(提携や協力)を行い、産業地盤の足元を固める必要があると考えています。

    そして、地方においても外需拡大を促進しなければならない状況にあると考えています。愛媛にある多くの産物を「輸出品」として、世界に向けて発信していく必要があるのです。もちろん我が県が直面している大きな課題からも目を背けることはできません。課題をひとつひとつクリアしながら、将来の世代のために今できることに精一杯取り組むことが肝要です。

    それを支えていく中心に位置するのが、我がニッポンのエリート集団である「行政」であると、私は考えています。そのような中、戦後70余年、現在に至るまでに蓄積された技術やノウハウを、世界に向けて発信することができる行政運営こそ、今の政治家に求められているのではないでしょうか。地方の中小零細企業・農林水産業・飲食業や商店に至るまで、様々な事業を支援し、世界に通用出来るようフォローしつつ、無駄のないバランスの取れた公共投資を促進することが、愛媛の、そして日本の課題なのです。